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法座

彼岸会

9月22日(火・祝)および23日(水・祝)の2日間にわたり、当山にて秋の彼岸会のご法座をお勤めいたしました。

今年のご講師には、呉市焼山の浄心寺より大江弘宣師をお迎えし、共に仏法をよろこぶ尊いご縁に恵まれました。

大江師のお説教は、私たちの日常生活に引き寄せた親しみやすいお話から始まりました。

■ ゴミの分別と「見え方の錯覚」
身近なゴミの分別のルールや、錯視を通した見え方の不思議(「世界は錯覚でできている」というお話)など、私たちが普段「見えている」「正しい」と思い込んでいる頭の働きについて面白く触れられました。
私たちは自分にとって都合の良いように物事を分類・判断(分別)し、思い込みのメガネを通して世界を見がちです。

■ 「夏の蝉」と海外旅行の思い出
古くから伝わる言葉に「蟪蛄(けいこ)春秋を識らず」という例えがあります。夏の盛りに生まれ命を終える蝉は、春や秋の季節を知りません。それどころか「自分が夏の中にいる」ことすら分かっていないのかもしれません。
大江師が学生時代に初めて韓国へ渡航された際、その先で感じる独特の匂いがあったこと、その後、日本へ帰国した瞬間に初めて「日本の匂い(醤油のような懐かしい匂い)」を肌で感じたというエピソードが紹介されました。
私たちはひとたび自分の枠組みの外に出てみて初めて、自分がどのような環境や偏見の中にいたのかに気づかされます。

これらの説話を通して、私たちは普段、自分の都合や好き嫌い(分別・自己中心的な思い)にとらわれ、怒り(瞋恚)やむさぼり(貪欲)、おろか(愚痴)な心で自分や周りを傷つけ、迷いを繰り返して生きていることが示されました。
自分がどこから来て、どこへ向かっていくのかも分からず、どこか漠然とした不安を抱えていること。
そうした言葉や限定を超えた真実(真如・一如)の世界から、迷いの最中にいる私を救うために現れてくださった存在を「如来」とお呼びするのです。

とりわけ阿弥陀如来は、どんなに愚かで救いようのない私であっても「決して見捨てない、そのまま救う」と誓ってくださいました。
その大いなるお慈悲と呼び声が、今こうして私たちの口からこぼれる「南無阿弥陀仏」のお念仏となって届いてくださっているのです。

そして、大江師は「仏法を聞く」ということを次のように説かれました。

■ お教えは自分自身を映し出す「鏡」
お経や仏さまの教えは、例えるなら「鏡」のような存在です。私たちが鏡を覗き込むのは、鏡のフレーム(形状)を見るためではなく、そこに映る自分自身の姿を確認するためです。
同様に、仏法を聞くということは、単に知識を蓄えたり他人を推し量ったりするためではなく、教えという鏡を通して「他ならぬ私自身の姿(自分の都合で物事を見て傷つき迷う姿)」を映し出し、聞き届けていくことに他なりません。

■ 私自身の不確かさと、阿弥陀さまの「必ず」
私たちは普段、自分の思いや経験を一番頼りにしがちですが、実はその自分自身こそが最も移ろいやすく頼りにならない存在です。
私たち人間側には決して変わらない「必ず(絶対の安心)」はありません。しかし、仏法を聞く中で自分自身の力の限界に気づかされた時、「そんなお前だからこそ、見捨てず必ず救う」と呼びかけ続けてくださる阿弥陀さまの大慈悲(南無阿弥陀仏)が、揺るぎない本当の拠り所として届いていたことに気づかされるのです。

以上のようにお示しくださり、大江師は最後に「仏法を聞くことも大切ですが、何より『仏法に私自身を聞いていく』こと、そしてその私に届いているお念仏をどうぞ大切になさってください」と、ご法座を結ばれました。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、季節が移ろうように、私たちの心もまた移ろいやすく頼りないものです。
だからこそ、「決して変わらない」阿弥陀さまの確かな呼び声が、秋の涼風とともに深く心に沁み入る二日間となりました。

ようこそのお参りでございました。

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