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法座

永代経法座

10月12日・13日の二日間にわたり、ご講師に光源寺(江田島市)の海谷真之師をお招きし、秋の永代経法座をお勤めいたしました。



修復が進む本堂の姿を皆さまと喜び合いながら、尊いお聴聞のご縁をいただきましたので、ここに、2日間にわたってお話しいただいたご法話の要点を整理してご紹介いたします。

五感で味わう「寺院浴」

インターネットの動画などで手軽に法話が聞ける時代になりましたが、自らお寺に足を運び、その場に「浸る」ことにはかけがえのない意義があります。
温泉にゆったりと浸かるように、お寺の空間に身を置く「寺院浴」。 響き渡るお経やお念仏の声、お線香の香り、そして共に手を合わせる懐かしい方々の姿。
知識を頭に入れるだけではなく、五感を通して、自分がすでに仏様のお慈悲に包まれていることに気づかせていただくのが、お寺でお聴聞することの尊さです。

一声のお念仏に詰まった阿弥陀さまの物語

ご法話の中で私たちが称えるお念仏にも通じるお話として、今年の夏の高校野球でNHKでも特集された、地元・黒瀬高校などによる合同チームの話題がありました。(実は、テレビで取り上げられた球児のお一人は、当山のご門徒さんのご縁の方でもあります。)

彼らが試合でようやく取った「1点」。常勝校にとっては「たった1点」と言われるものかもしれません。しかし、その1点を開いてみると、そこには選手たちの並々ならぬ努力や悔しさ、そして彼らを支え続けた監督、保護者、地域の皆さまの熱い想いがぎゅっと詰まっていました。

私たちがポロリと称える「南無阿弥陀仏」のたった一声。その一声を開いてみると、そこには気の遠くなるような時間をかけて私たちを救う手立てを完成させてくださった阿弥陀さまの深いご苦労の物語があり、私をお寺へ、お念仏へと導いてくれた懐かしい方々の願いが詰まっているのです。
私たちが称える「南無阿弥陀仏」は、自分が立派になったから口から出ているのではなく、阿弥陀さまの「あなたを一人にはしない、必ず救う」という願いが、様々なご縁を通してようやくこの私にまでしっかりと届いている証拠なのです。

人生は夕暮れではなく「暁(夜明け前)」

年齢を重ねると、自分の人生における現時点を「1日の夕暮れ」のように感じてしまうかもしれません。
しかし、親鸞聖人はご自身の晩年を「暁(夜明け前)」と表現されました。
私たちはいくつになっても、その年齢を生きるのは初めてであり、手探りの連続です。暗闇の中でつまずくような不安もありますが、その先にはお浄土に生まれて仏になるという「輝かしい夜明け」が待っています。
お浄土は、見上げる遠い天国ではなく、今の私を下からしっかりと支えてくださっている大地です。
その安心の大地から、やがて私を仏にするという確かな朝日が昇ろうとしています。
だからこそ、私たちの人生は終わりに向かう夕暮れではなく、輝かしい光に包まれる「夜明け前(暁)」なのです。

「老い」は、手放しお返ししていく歩み

東井義雄先生は、『老い』という詩を通して「老い」とは失われていく寂しさであると同時に、「気づきを得させてもらう喜び」の過程でもあると示されています。
だんだんと歩くのがゆっくりになるからこそ、道端の小さな花に気づけるようになるなど、若い頃には当たり前だと思っていたことの尊さに、ようやく頷けるようになる過程があるのです。
私たちが手にしているものを、生まれてから今日まで「お預かりしてきたもの」と味わえば、「老い」は「失われていく」のではなく、少しずつ手放し「お返ししていく」歩みであると言えるでしょう。

「お聴聞の旬」

そして、野菜や果物に一番美味しい「旬」があるように、人間にも「可愛らしさ」など、「旬」と呼べる時期があります。
年を重ねていくと、自分の「旬」は過ぎてしまったように感じるかもしれません。
しかし、人生の様々な苦労や悲しみを経て、若い頃には遠く感じていた仏様のお話が深く心に響く「今」こそが、誰にとっても一番の「お聴聞の旬」なのです。

どんな時も「あなたは一人ではないよ」と寄り添ってくださるお念仏とともに、これからも日々の歩みを大切に進めさせていただきましょう。 ようこそのお参りでございました。

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