徳正寺では、5月20日、21日と、親鸞聖人のお誕生日をお祝いする「降誕会」の御法座を営みました。
20日夕方から雲がかかりはじめ、21日は雨の降る中ではありましたが、多くのご参詣をいただきました。

今回の法座では、江田島市・西円寺より足利法水師をお招きし、親鸞聖人のお誕生と阿弥陀さまのおはたらきについて、ユーモアを交えながら大変温かく、そして味わい深くお話しをいただきました。

解決できない「苦悩」と阿弥陀様の「回向」
お説教は、親鸞聖人のご和讃「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」をご讃題にお取次くださいました。
私たちが日常で直面する「苦労」は自分の力で解決できるものですが、「苦悩」は自分ではどうすることもできない解決のつかない苦しみを指します 。私たちは皆、そうした思い通りにならないいのちの矛盾を抱えた「苦悩の有情」です。
阿弥陀さまは、そんな私たちを決して見捨てず、ご自身の方から「南無阿弥陀仏」となって私のところへ届き、働きかけてくださいます。
和讃にある「首とする」という言葉には、私のことを「一番」にして救いのために来てくださっているという、尊い意味が込められていることをお示しいただきました。
その対象が「苦悩の有情」とあることがありがたいことで、苦悩を抱えた私そのものを指しています。「有情の苦悩」であるならば、個別の苦悩の解決が問題になってしまうからです。
親鸞聖人の「お誕生」の意味
お祝いの言葉として使われる「誕生」という漢字の成り立ちについても触れられました。「誕」には元々「言葉を伸ばす」つまり「出鱈目」や「嘘をつく」という意味があったそうです 。それが時代を経て、中国の詩にちなみ、羊の出産のように安産であったことを祝う言葉へと変わっていったとのお話でした。
親鸞聖人がこの迷いと苦しみの世界にお生まれになったのは、阿弥陀さまがお姿を変えて、私たちをお念仏の教えに導くためでした。
阿弥陀さまの願いがかかったいのちをいただき、お念仏の教えに出遇えたことに感謝して生きることの尊さを、改めて味わわせていただきました 。
「立撮(りっさつ)」のお姿
ご本尊である阿弥陀さまが立っておられるお姿の意味についても教えていただきました。お立ちになられているお姿は「立撮(りっさつ)」といい、「撮る(取る)」には一瞬を逃さず捕まえるという意味があります 。それはまるで、海に落ちそうな子どもを親がしっかりとつかまえていくように、阿弥陀様が私たちを迷いの世界から落とさぬよう、立ち上がって働きかけてくださっているお姿です。
さらに、仏さまは決して私たちに背中を向けることはなく、私たちが関係を切ろうと思っても切れないお働きで常に包み込んでくださっています 。
『恩徳讃』の「べし」
浄土真宗で最も親しまれているご和讃といっても過言ではない『恩徳讃』についてのお話もありました。
「身を粉にしても報ずべし」という言葉の「べし」は、決して義務や命令を表すものではありません 。
親鸞聖人はこれを「きっと〜なるだろう」という推量や予想の意味でお使いになられたそうです。今は煩悩だらけで未熟な私であっても、「南無阿弥陀仏」のおはたらきによって「必ず仏にならせていただける」という、深い安心とよろこびがそこには込められています。

ようこそお参りくださいました 。